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	<title>MEOTO TIMLINE へのコメント</title>
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	<description>旅する、表現する、ふたりでただ生きる</description>
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		<title>古代史が好き より 天孫降臨の地パワースポット 霧島神宮 へのコメント</title>
		<link>http://meoto.tv/timeline/2010/09/27/kirishimajingu/comment-page-1/#comment-298</link>
		<dc:creator>古代史が好き</dc:creator>
		<pubDate>Tue, 10 Jan 2012 02:53:13 +0000</pubDate>
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		<description>高天原＝蒜山、天孫降臨地＝伯耆国説の論拠

①	宮崎県の高千穂を訪れた人は疑問に思われるそうである。出雲の地で国を譲りましょうといわれて、なぜ譲られた地が出雲から遠く離れた宮崎県なのか。建御名方命は国譲りに際して、なぜ出雲の国に逃げずに長野まで逃げたのか。事代主命は譲った国から魚釣りに出かけていて、帰ることが出来ずに、美保関で入水自殺した。なぜ出雲の国に帰らなかったのか。
②	天孫族（ユダヤもそうらしいですが）には産屋の習慣がありました。川ひとつ挟んだ隣の丘に産屋をこしらえて、そこでお産をし、一ヶ月はそこですごす。コノハナサクヤヒメは身の潔白を証明するために産屋に火を放ってお産をしたそうです。また、玉依姫は産屋を作るのが間に合わなかったため、その子の名前はウガヤフキアエズという名前になりました。このように、天孫降臨の地は産屋の仕来たりのあるところでなくてはならないのですが、日本海沿岸にはつい最近までこの仕来たりが残っていたそうです。九州沿岸にはこの仕来たりはないそうです。  
③	ニニギの尊は高千穂に立たれて「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、と古事記には書かれている。「韓国に向かい」で九州説は大論争になった。北九州説では「韓国に真向かい」と真の字まで付け足して、正当性を論拠付けようとしている。そうではなく、対馬海流にのると朝鮮半島からは流されるように鳥取県や丹後半島に着きますよ。という素直な捕らえ方をすればよい。古くから朝鮮半島からの渡来人が多く漂着したところです。当時は海岸線が４ｍ高く、リアス式海岸であり笠形の砂地を先頭にして瀬戸から亀谷・津原・穂波・原まで巻く海岸線があった。「朝日は直にさし、夕日は日照る」地である。「朝日は笠沙の御前を眞來通りて、直刺す」と読むべきではないか。
④	『尊卑分脈』に引く藤氏大祖伝に、藤原不比等は山科の田辺史大隈の家で養育され、史（ふひと）と名づけられたと記されている。百済系史官とは、田辺史・書首・船史らのことをいうが、当時の最大権力者藤原不比等（史を不比等に改めた）が、百済系史官のバックにいたことは当然考えられる。不比等は大宝律令の撰定者でもあったが、『続日本紀』に、藤原不比等ら撰定者に録を賜うとあり、その中に田辺史百枝・田辺史首名の名がみえる。田辺史から選ばれているのは、田辺史に養育された不比等のバックアップによるものであろう。大宝律令の撰定に百済系史官を使っているのだから、『日本書紀』の編纂にも藤原不比等の息のかかった百済系史官を使ったものと思われる。百済系史官が『日本書紀』の編纂における中心的役割を果たしていた。山上憶良も百済系史官であった。
⑤	白村江の戦で敗れた朝廷は都を大津に移し、百済の王族を宮崎県に逃がしている。山上憶良は百済人である。当時の最大権力者である藤原不比等も百済系である。藤原不比等の息のかかった百済系史官が『日本書紀』の編纂における中心的役割を果たしていた。当時の朝廷は自分たちに関係する百済の王族のいたところを天孫降臨の地にしたかった。九州の記紀伝説は伯耆国のコピーである。 古事記は７１２年に発表され日本書紀は７２０年の発表である。 古事記を見た朝廷は７１６年に史誌編さんに携わっていた山上憶良を（天孫降臨の地の移転目的で）古事記の内容の確認に伯耆国の国司に派遣する。山上憶良は好きな万葉の歌一首をつくる間もなく、調査に専念した。伯耆国の調査報告を逐一受けた朝廷は古事記を百済色に改ざんして日本書紀などの史誌を編さんした。その後７２１年に山上憶良は朝廷へ帰って５年後の７２６年再び筑前の国司となる。 大伴旅人（九州全体の長官）と仲良くなり、日本書紀などの史誌に合うように 九州の地名・神社の創設・神楽の創設をしていった。
もと出雲国であり天孫に譲られた国、天孫降臨の地は伯耆国である。  ニニギのお供の者も北栄町の大宮を中心に自然な距離に祭られている。コノハナサクヤヒメもニニギの尊のおられた大宮神社と同じ丘陵の少し下ったところにある神社に祭られています。行き来するのに自然な距離です。  
⑥　　伯耆国は今日で言う出雲国の隣です。伯耆国はもとは出雲国と同じ大国主の命が支配していました。それを天孫族に国譲りしました。国譲りの交渉に２番目に派遣された天稚彦命は大国主の命の娘の下照姫命と結婚していて８年間帰ってこなかった。結婚して倉吉駅の近くの大平山近辺に住んでいた。大平山の麓には後にニニギの命が東倭を征伐し浦が安くなるように建立したと伝のある清谷神社がある。天稚彦命と下照姫命の祭られている神社は希少で少ないが倭文神社　（舎人村 湯梨浜町宮内７５４）と　波波伎神社（倉吉市福庭654番）に祭られている。波波伎（ハハキ）は櫛稲田姫命が「母来ませ」と助けを求めたところからきている。波波伎神社の横を流れる天神川の上流の坂本の神社には櫛稲田姫命の両親が祭られている。箸の流れるのが分かるほどの支流である。途中、大瀬ほうき（ハハキが訛ってほうき伯耆になったという）という地名も残っている。
⑦	やすみししわご大君の食国（おすくに）は倭（伯耆国を含む出雲）も此処（九州）も同じとぞ思ふ -大伴 旅人
⑧	父母を　見れば貴し　妻子(めこ)見れば　めぐし愛(うつく)し　世の中は　かくぞことわり　もち鳥の　かからはしもよ　ゆくへ知らねば　穿沓(うけぐつ)を　脱き棄(つ)るごとく　踏み脱(ぬ)きて　行(ゆ)くちふ人は　石木(いはき)より　成りてし人か　汝(な)が名告(の)らさね　天(あめ)へ行かば　汝(な)がまにまに　地(つち)ならば　大君います　この照らす　日月(ひつき)の下は　天雲(あまくも)の　向伏(むかぶ)す極(きは)み　蟾蜍(たにぐく)の　さ渡る極(きは)み　聞こし食(を)す　国のまほらぞ　かにかくに　欲(ほ)しきまにまに　しかにはあらじか　山上 憶良
父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、黐(モチ)にかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前（大伴旅人）をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>高天原＝蒜山、天孫降臨地＝伯耆国説の論拠</p>
<p>①	宮崎県の高千穂を訪れた人は疑問に思われるそうである。出雲の地で国を譲りましょうといわれて、なぜ譲られた地が出雲から遠く離れた宮崎県なのか。建御名方命は国譲りに際して、なぜ出雲の国に逃げずに長野まで逃げたのか。事代主命は譲った国から魚釣りに出かけていて、帰ることが出来ずに、美保関で入水自殺した。なぜ出雲の国に帰らなかったのか。<br />
②	天孫族（ユダヤもそうらしいですが）には産屋の習慣がありました。川ひとつ挟んだ隣の丘に産屋をこしらえて、そこでお産をし、一ヶ月はそこですごす。コノハナサクヤヒメは身の潔白を証明するために産屋に火を放ってお産をしたそうです。また、玉依姫は産屋を作るのが間に合わなかったため、その子の名前はウガヤフキアエズという名前になりました。このように、天孫降臨の地は産屋の仕来たりのあるところでなくてはならないのですが、日本海沿岸にはつい最近までこの仕来たりが残っていたそうです。九州沿岸にはこの仕来たりはないそうです。<br />
③	ニニギの尊は高千穂に立たれて「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、と古事記には書かれている。「韓国に向かい」で九州説は大論争になった。北九州説では「韓国に真向かい」と真の字まで付け足して、正当性を論拠付けようとしている。そうではなく、対馬海流にのると朝鮮半島からは流されるように鳥取県や丹後半島に着きますよ。という素直な捕らえ方をすればよい。古くから朝鮮半島からの渡来人が多く漂着したところです。当時は海岸線が４ｍ高く、リアス式海岸であり笠形の砂地を先頭にして瀬戸から亀谷・津原・穂波・原まで巻く海岸線があった。「朝日は直にさし、夕日は日照る」地である。「朝日は笠沙の御前を眞來通りて、直刺す」と読むべきではないか。<br />
④	『尊卑分脈』に引く藤氏大祖伝に、藤原不比等は山科の田辺史大隈の家で養育され、史（ふひと）と名づけられたと記されている。百済系史官とは、田辺史・書首・船史らのことをいうが、当時の最大権力者藤原不比等（史を不比等に改めた）が、百済系史官のバックにいたことは当然考えられる。不比等は大宝律令の撰定者でもあったが、『続日本紀』に、藤原不比等ら撰定者に録を賜うとあり、その中に田辺史百枝・田辺史首名の名がみえる。田辺史から選ばれているのは、田辺史に養育された不比等のバックアップによるものであろう。大宝律令の撰定に百済系史官を使っているのだから、『日本書紀』の編纂にも藤原不比等の息のかかった百済系史官を使ったものと思われる。百済系史官が『日本書紀』の編纂における中心的役割を果たしていた。山上憶良も百済系史官であった。<br />
⑤	白村江の戦で敗れた朝廷は都を大津に移し、百済の王族を宮崎県に逃がしている。山上憶良は百済人である。当時の最大権力者である藤原不比等も百済系である。藤原不比等の息のかかった百済系史官が『日本書紀』の編纂における中心的役割を果たしていた。当時の朝廷は自分たちに関係する百済の王族のいたところを天孫降臨の地にしたかった。九州の記紀伝説は伯耆国のコピーである。 古事記は７１２年に発表され日本書紀は７２０年の発表である。 古事記を見た朝廷は７１６年に史誌編さんに携わっていた山上憶良を（天孫降臨の地の移転目的で）古事記の内容の確認に伯耆国の国司に派遣する。山上憶良は好きな万葉の歌一首をつくる間もなく、調査に専念した。伯耆国の調査報告を逐一受けた朝廷は古事記を百済色に改ざんして日本書紀などの史誌を編さんした。その後７２１年に山上憶良は朝廷へ帰って５年後の７２６年再び筑前の国司となる。 大伴旅人（九州全体の長官）と仲良くなり、日本書紀などの史誌に合うように 九州の地名・神社の創設・神楽の創設をしていった。<br />
もと出雲国であり天孫に譲られた国、天孫降臨の地は伯耆国である。  ニニギのお供の者も北栄町の大宮を中心に自然な距離に祭られている。コノハナサクヤヒメもニニギの尊のおられた大宮神社と同じ丘陵の少し下ったところにある神社に祭られています。行き来するのに自然な距離です。<br />
⑥　　伯耆国は今日で言う出雲国の隣です。伯耆国はもとは出雲国と同じ大国主の命が支配していました。それを天孫族に国譲りしました。国譲りの交渉に２番目に派遣された天稚彦命は大国主の命の娘の下照姫命と結婚していて８年間帰ってこなかった。結婚して倉吉駅の近くの大平山近辺に住んでいた。大平山の麓には後にニニギの命が東倭を征伐し浦が安くなるように建立したと伝のある清谷神社がある。天稚彦命と下照姫命の祭られている神社は希少で少ないが倭文神社　（舎人村 湯梨浜町宮内７５４）と　波波伎神社（倉吉市福庭654番）に祭られている。波波伎（ハハキ）は櫛稲田姫命が「母来ませ」と助けを求めたところからきている。波波伎神社の横を流れる天神川の上流の坂本の神社には櫛稲田姫命の両親が祭られている。箸の流れるのが分かるほどの支流である。途中、大瀬ほうき（ハハキが訛ってほうき伯耆になったという）という地名も残っている。<br />
⑦	やすみししわご大君の食国（おすくに）は倭（伯耆国を含む出雲）も此処（九州）も同じとぞ思ふ -大伴 旅人<br />
⑧	父母を　見れば貴し　妻子(めこ)見れば　めぐし愛(うつく)し　世の中は　かくぞことわり　もち鳥の　かからはしもよ　ゆくへ知らねば　穿沓(うけぐつ)を　脱き棄(つ)るごとく　踏み脱(ぬ)きて　行(ゆ)くちふ人は　石木(いはき)より　成りてし人か　汝(な)が名告(の)らさね　天(あめ)へ行かば　汝(な)がまにまに　地(つち)ならば　大君います　この照らす　日月(ひつき)の下は　天雲(あまくも)の　向伏(むかぶ)す極(きは)み　蟾蜍(たにぐく)の　さ渡る極(きは)み　聞こし食(を)す　国のまほらぞ　かにかくに　欲(ほ)しきまにまに　しかにはあらじか　山上 憶良<br />
父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、黐(モチ)にかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前（大伴旅人）をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。</p>
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		<title>saihate より 天孫降臨の地パワースポット 霧島神宮 へのコメント</title>
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		<dc:creator>saihate</dc:creator>
		<pubDate>Thu, 12 May 2011 06:32:00 +0000</pubDate>
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		<description>近くの霧島温泉郷もよかったな〜</description>
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